4,当時の東高は一学年男子が260人、女子が10人、クラス40数人の中で女子は2人だった。兄が東高だったので当然のよう東高に入るように誘導された。今の時代考えられないことだが、「なぜ君たちは西高に行かなかったのか。」とか、はっきり迷惑だという教師もいた。入学してすぐ、コンタクトレンズにした。
付属中学から入った女子や、社交的な女子などはすぐ男子の中に入っていけたが、私はまわりに声をかけることも、掛けられることもなく、誰とも口を利かない日もあった。授業中より辛いのは休み時間で、時々トイレの個室の中で時間をつぶした。
数カ月後、校門を出たとたん自然とがボロボロこぼれるようになっていった。うちでは何度も母親に転校を懇願した。時には背中を蹴った。でも母はいつもの口癖「困ったわねえ~。」しか言ってくれなかった。私の話を聞くことすらなかった。心を無にしてようやく2年が過ぎ、3年生になると話しかけてくれる男子が少しずつ現れ、クラスに少し入っていけるようになった。
2年生のころ、同級生の男子に告白されたことがある。どうしてこんな私に告白なんかするんだろうって思った。でもその子の顔はとてもまじめで緊張していて、私もカチカチになって何を話したか覚えていないが、結局断った。同じ机の定時制の顔も知らない男の子と、手紙のやりとりをしたこともあった。色んな辛いことを話したが、席替えになって自然と消滅した。片思いの男の子もいたけど、ずっと見てるだけだった。
高校生の私は、ストレス太りで、内向的な、ガリ勉の女の子だった。

志望校は親から医学部を勧められた。合格しやすいことと、受験科目が少ないことから私立大学を受けることになった。それなら東京に行きたかった。親元から離れた都会に。できれば女子が多い大学。結局4この私立医学部に合格し、私は第一志望の東京女子医大に入学した。
この3年間はかなりつらい3年間だった。不思議なことにこんな時代を一緒に過ごした、おやじになった同級生達と今は交流を持っている。時は過ぎる。(幸せ点:0点)

5,田舎から上京した私には東京のすべてが新鮮で刺激に満ち溢れていた。東京女子医大は新宿区にあり、当時は近くにフジテレビなどもあり、華やかで、芸能人、政治家などの有名人が入院する大病院だった。東京は人であふれ人ごみの中にいても他人に興味を持たないところは、時には寂しく、時には心地よかった。昔の自分を捨てたくて、ダイエットをして10キロやせた。お化粧も覚え、ファッション雑誌を熟読し、都会のファッションに身を包んだ。合同コンパ、ダンスパーティーにも行き、何個かの恋をし、傷つけ、傷ついた。学校も休むことが多くなっていった。6年間なんとか留年だけは免れ続け、卒業試験、国家試験が終わり、医師になった。(幸せ点:40点)

6,その後東京女子医大消化器内科勤務た。半年は消化器内科(fix)、その後は3か月毎、循環器内科、糖尿病、腎内科、呼吸器内科を回り(rotate)、その後fixに戻った。ここでもダメ医者なのである。やる気がない。早く帰りたい。寝たい。ゴロゴロしたい。看護師さんも私のオーダーを取ってくれなくなった。当然である。そんな女医が目の前にいたら無視もしたくなる。もうやめたいなあ、なんて思い始めていた。
私はずっと結婚願望が強かった。早く奥さんになって、早くお母さんになりたかった。いつも一人ぼっちのような気がして、地面に足がつかないような、私の存在意義がないような、何のために生きるのか、何のために医師をやってるのか分からなかった。(幸せ点:40点)

7,消化器内科の同期生だった夫と結婚した。そんな私とよく結婚したって?ほんと!あとから聞くと「でもそれなりに頑張ってたよ~。」なんて言ってくれるが。
その後1年間は夫の出張先の山梨の社会保険山梨病院で週に2回ぐらい、健診センターのバイトをしていた。医局のおばちゃんが作るカレーが美味しくて、お弁当にかけて食べていた。なつかしい。
社宅に住んでいた。社宅は古くて、窓を開けると目の前に墓場が広がっていた。チラシを見て安いスーパーを探して買い物に行ったり、家計簿をつけたり、洗濯物を干したり、夫の帰りを待って夕食を作る生活はとても幸せだった。
が生まれた。その時、私の中で何かが変わった。この子を守らなきゃ、ダメな母親じゃ娘に恥ずかしいって思った。妻として母親としてダメな人間でいるわけにいかない。
翌春、
転科した皮膚科では、教授にうるさいぐらいに質問し、その日の症例は家で教科書をみて勉強し、翌日また質問を繰り返した。双子が生まれ3人になってからは保育園からしょっちゅう呼び出しがかかるようになり、与えられた時間の中で必死だった。保育園から3人の幼児を連れて帰り、すぐ洗濯、お風呂、食事の支度をして、その後勉強の毎日は、時々くじけそうになった。しかし、30年近くたった今、心から思う。あの時の私がいたから今私がここにいるんだって。そしてあの時、沢山の人に助けられていた。教授、上司、研修医、秘書さん、保母さん、3人の子供達、そして夫。6年間の短期間で学位と専門医を取ることが出来た。ありがとうございます。(幸せ点:90点)

8,その後、寒河江市で開業して、今沢山の患者さんと接することが出来て本当に幸せだ。しかし、子供の頃の思い出がたくさん詰まった故郷に帰ってきたことで、私にとってつらいことがどんどん増えていった。自分と同じ学校に通い始める子供達、嫌がおうにも自分の子供時代がよみがえってくる。両親との軋轢もどんどん大きくなっていった。孫の成績をなじる両親、孫に医師になれと強要する両親、吐き気がするぐらいの嫌悪感。自分を保つようにするには距離を置くしかない、と最終的に出した結論である。
開業当時5人だった職員が今は12人に増えた。開業当時33歳だった私は、人を引っ張っていく能力なんて全くなく、随分職員に嫌な思いをさせたことだと思う。案の定随分多くの職員が辞めていった。
もうすぐ60歳になる。人を引っ張っていく能力はいまだにないが、人を許すことが出来るようになってきた少し私も大人になったようだ。(幸せ点:95点)

私の両親は人間にとって必要なこと、幸せなこと、大切にしなければいけないことを教えてくれなかった。私たちをトロフィーチルドレンにしたかっただけ。物心がついた時から「成績がいい人間が一番優れている」と教え込まれた。そのためには手段は選ばないことも。それが間違いであることは当然なのに、この脳から抜け出すのは簡単なことではなかった。3人の子供達には、どこに行ってもいい、何をしてもいい、ただ幸せな人生を送ってほしいとずっと伝えてきたが、その途中途中で私自身があの考えにまだ取りつかれていないか不安で仕方なかった。ある種の虐待である。私は愛されてなかったんだろう。それを認めるのは辛いことだけど、今は穏やかな気持ちで、確かな気持ちで受け入れている。親だって完璧な人間じゃない。許すとかそんなんじゃない。彼らに近づくと私の心は乱れて破壊されそうになるから。
虐待に近い人生、ダメな人生、頑張った人生、全部今は受け入れている。このすべてがあったから今の私がいるんだ。今まで流した涙、叫び、あがき、喜び、幸せ、感動が今の私をつくったんだ。

最後に、こんな医者にかからない方がいい、と皆さん、思うだろう。でも、たぶん大丈夫だと思う。